八咫烏ジラフィーヌの記録帳

Twitterの記録・補足のための長文用ブログです

スカッとドラマに私が「はて?」と思う理由

かつて、「スカッとジャパン」という番組があった。
理不尽で酷い扱いで人々を虐げる「ヴィラン(悪役)」を、誰かがギャフンとやりこめて、視聴者がスカッとするという主旨の番組だ。
確かに見ていて、ヴィランの振る舞い、所業、許しがたく耐え難い人物造形で、彼らがやっつけられると溜飲を下げる思い。

これはかつての時代劇の流れを汲んだバラエティ番組だと思う。
水戸黄門大岡越前必殺シリーズなど、出てくる「悪役」は、いかにもという風体で、弱き人々を蹂躙し、踏みにじり、命さえ奪う時もある。40分程度で話をまとめなくてはならないので、視聴者が混乱しないように人物造形されている。彼らの背景などは省かれ、大抵は私利私欲のためという単純な動機がついている。わかりやすい。

さらにスカッとジャパンは、せいぜい10分くらいで話をまとめなくてはならないので、ヴィランはグロテスクに悪い面を強調させた「記号」でしかない。
我が家の老母や姉は大好きで、必ず視聴していたが、私は嫌いだった。
何故なら、どうしても制作側の
「さあここで怒って!酷いやつでしょう。こいつをぶん殴ったらスカッとするでしょう?」
という意図のほうが鼻についてしまうからだ。

 

いわゆるモンスターと呼ばれる人格を持つ人間は、それこそリアルではあまたに存在していて、一過性ならともかく、嫌でも長期的に関係性が持続するというケースもざらにある。その鬱憤を、こう言う番組で疑似体験させ、叩きのめすことで、視聴者は一時的にもスッキリする。そういう作用はあるだろう。

だが私は、それでなくてもリアルで色々とあるのに、わざわざ嫌な疑似体験をしてまで人を叩きのめすことを快く思えない。何より、怒りを誘導操作されることが気持ち悪い。
だが先程の時代劇のように、一定層に需要があるのは理解しているし、その存在じたいは否定しない。

 

さてヴィランたちだが、彼らをスカッと殴りつけるためには、殴るほうにも、それ相応の「大義名分」が必要になる。理由もなく暴力やそれに近い行為でやり込めることは「正義」側としてはありえない。だからこそ、先程の「悪行」が、わかりやすい記号として描写されることになる。

例えば法律を学び、弱く虐げられた人々を救うために立ち上がった女子学徒たちが、一歩間違えたら命すら奪いかねない「男性の急所を激しく蹴り上げるという暴力行為」を、公的な場所で行うということは、それ相応の理由が必要になる。

長々と書いてきたが、私が今期の朝ドラに強く疑義を抱く理由は、このあたりにある。すなわち、相応の理由を視聴者に納得してもらうため、ヴィランの悪行を強調し、本来なら学校行事の進行を守る立場の大学側が妨害行為を制止しないという描写は、視聴者に「怒り」を誘導させるための「記号」なのではないか?と。

 

今期朝ドラは徹底して当時の社会構造の不備を描写している。昭和初期の法律における女性の扱いは酷いもので、令和の我々からすれば耐え難いものがある。そのまま描写するだけで怒りが湧き上がるのは当然だが、うまくバランスを取りながら制作していると思う。朝ドラという媒体を知り尽くし、ネットでの反応すらも組み込んでいて、技巧的にも優れたドラマだ。だが、どうしても制作側の「角度」として、怒りを特定の方向に誘導していないか?と、私は思わざるを得ない。

私が一番疑義を抱くのは、主人公の寅子と学友らで行われた法廷劇において、妨害行為を行った同大学生の男子複数人が、彼女らの劇をヤジで妨害した件にある。その時、学友の一人である山田よねが、ヤジをした男子学徒に対して詰め寄り、妨害学徒は彼女を突き飛ばした。その反撃として、先程の「男性の急所である股間を蹴り上げる」という暴力行為に及んだ。

だがこれは、同じ法律を学ぶ山田として適切な行為とは思えない。先のエピソードで「先に手出しさせればいいのに」という台詞があったことも加えて考えると、ここは男子学徒が「先に手を出した」という事実を逆手に取り、自らは暴力を振るうこと無く「これは傷害罪だ!警察に訴えるぞ」と喝破するほうが良かったのではないか?その際に大学側も騒ぎを制止するため先に動いていれば、それを盾にして言うこともできたのに、そうしなかった。何故か。

「女性が男性の股間を蹴り上げる」という行為を、視聴者がスカッとさせるための便利なシーンとして使いたかったからではないのか?

ちなみに、考証されている明治大学法学部の村上一博教授の記事を読んだが、今回のくだりは一部よりお叱りも受けているそうだ。以下引用します

法廷劇そのものは、男子学生たちによる妨害によって中止になってしまいましたが(校友の方から、明治大学のイメージが悪くなるとお叱りを受けましたが、もうすぐ岩田剛典さんが登場して一挙にイメージアップしますので・・・お許し願います)

虎に翼 第3週「女は三界に家なし?」を振り返って
https://meijinow.jp/article/toratubasa/95634

 

前述の通り、男性の急所を蹴り上げるという暴力行為は、一歩間違えれば命すら奪いかねない。
劇を妨害され、罵倒され侮辱され、突き飛ばされたのだから、そういう行為に及んでも構わない?だがそれは、法律を学ぶものとしては、あまりにお粗末な判断と言わざるを得ない。
これは過剰防衛である。
しかし何故その行為を選んだのか。

まとめではカットされなかった。
すなわち、制作側としては「絶対に外せない」と選んだシーンだと言える。

その上、華族の涼子にこう言わせている。

「私 法廷劇の時 ほれぼれしましたの。
 私は動けなかった。
 理不尽なことが起きているのに
 周りの目が気になって
 集まった記者が怖くて
 殿方に立ち向かうのが怖くて。

 そんな中 あなたは怒りを飲み込まず
 まっすぐに 真っ先に殿方の…。
  股間を蹴り上げた。

 私も あなたのように 周りを気にせず
 声を上げられるようになりたい。
 ちゅうちょなく股間を蹴り上げられる女性になりたい」

 

わざわざここで強調していること、好意的なエピソードとして取り上げていることからしても、話の上では、この行為は「肯定されている」とみなしていいだろう。

男性にとっての急所は、文字通り「男性のシンボル」といえる。
それを蹴り上げることで溜飲を下げてほしい、そういう意図があったのだろう。
男性、ひいては男性優位の社会構造そのものを蹴り上げろと。

だが、私はどうしても納得できない。
この怒りのフックは、ここまで意図的に恣意的に、強調されなくてはならないものだったのか?
声を上げられない女性たちに、怒れ、声を上げろ。股間を蹴り上げろ、男性を潰せと誘導する意図すら感じられる。
これはラディカル・フェミニズム思想に近い。

この法廷劇の皮肉なことは、本来、女医である犯人を女給に変えて、大学側が女性への偏見をもとに絶対弱者に捻じ曲げたことに主人公や友人たちが憤慨するという流れが、そのままこの作劇自体はどうなのか?というブーメランが発生していることである。

女性についての生理現象を、男性にも理解してほしいと願うのなら、センシティブな男性の股間周りについても、軽んじること無く扱ってほしかった。
女性以上に、実は軽視されているのは、男性性といえるのだ。

 

私が「怒りを誘導されること」に警戒感を抱くには理由がある。
フランス革命など、民衆を煽り立てて暴動を起こさせる背景には、こういう意図的な誘導で、デマや誇張を使って民衆の怒りを増幅させてきた扇動者が必ず存在する。

フランス革命においては、マリー・アントワネットの醜聞を女性たちに撒き散らし、彼女たちを怒りによって突き動かしてきたという事実もある。

デマやフェイクは、作るのは簡単だが、それを否定し説明することは難しい。
膨大な情報があふれる現代においては、その危険性は過去の比ではない。

今回、明らかに政治的な運動に誘導している存在もいて、私は強い危機感を抱いていた。
問題意識を持つこと、疑問を持つことは素晴らしい。
しかし、どうか、どうか慎重になっていただきたい。
ネット情報は必ず疑い、別角度からの検証が必須であることを、忘れてはならないと思う。

 


主役の寅子を演じる伊藤沙莉さんは、岡田惠和さんのラジオ番組でこう述べている。

(岡田)吉田さんの描いている脚本の世界が、すごくニュートラルでイーブンで、変な話、男の人でもすごく見やすい。

(伊藤)そうなんですよ、そこは脚本を見てホッとしたし、キャスト同士とか監督とかとも話しているのが、最近特に多いじゃないですか、女性の背中を押した作品が増えて、そういうものを描くと、どうしても女性に寄りがちというか、女性だけが苦しい思いをしたとか。もちろん昔の法律からして、すごく虐げてきたものだから、そこはちゃんと描こうと思いつつ、男尊女卑の逆になりたくないよね?というのを、すごく思ってて、そこはとっても大切にしたいって。ひとつひとつの言葉もそうだし、ニュアンスで、どこかこう、男の人が「悪」みたいには絶対にしたくない、というのを、皆で確認をとって、皆そういう意識だったから、すごく安心しました。

 

彼女の言葉は、視聴者としては福音である。
まだドラマとしては始まったばかり。
その誠実で真摯な姿勢を信じて、今後も視聴を続けようと思っている。

舞いあがれ!最終回に寄せて

舞い上がれ、見事な大団円でしたね(*´ω`*)
今年くらいから個人的に忙しくなったり
どうしても実家だとペースが崩れるのもあって
最近はなかなか呟く事も出来ませんでしたが
毎朝、楽しく視聴していました。

最後のほうは詰め込みすぎかな?と思いました^^;
こんねくと、空飛ぶクルマ、コロナ禍下の葛藤は
もっと時間をかけて見たかった…
特に空飛ぶクルマの制作話は、物語の根幹とも言える重要な物語。
そこに自分があまり乗り切れなかったのは、とても残念でした。
個人的にバタバタしていたからとはいえど…

あとやはり、全部 桑原さんの脚本で見たかったですね。
今後は脚本はチーム体制になっていくかもしれませんが、
それならば余計、
全体を俯瞰してディレクションできる存在が
必要になるのではないかと思います。

脚本家により方向性や雰囲気が大きく変わったり、
それぞれの領域に手出し・口出し出来ない?という状態は
視聴者として、あまり良いものとは思えませんでした。
しっかり反省して、今後に繋げていただきたいです。

まあ いきなり辛口なこと言ってしまいましたけど
とにかく、桑原さんの繊細で優しくハイレベルな脚本には
何度も泣き、感銘をうけていました。
最終回で、ばんばが「舞や…向かい風に負けんかったね。」と呟く。
もう涙なしでは見られませんでした。

舞ちゃんがパイロットにならずにIWAKURAの道を選んだとき
正直、なんで?と疑問でした。
でもよくよく考えてみると、彼女の本質は「ものづくり」にこそあった。
完走したあとに振り返ると、回り道かと思われたものは全て生かされていて、
彼女がどれほど貪欲に「自分の道」を貫いているのかがわかります。

飛行機をつくりたい。
飛行機でとびたい。
飛行機で皆をつなげたい。

と、同時に。
大好きな幼なじみと結婚して、子供を生んで、ともに育てて…

欲張りなヒロイン。でも全部やりきったヒロイン。
舞ちゃんすごい!とスタンディングオベーションしたい気分です。

桑原さんの脚本は優しいとよく言われますが
それは、甘い優しさではなく
厳しい現実で生きるときにどうしてもついてしまう傷を
覆い、守り、癒やす優しさだと思います。

本当の優しさは、その人が強くないと出来ません。
痛みと傷を乗り越え、努力した人だからこそ出来る優しさが
「舞いあがれ!」には溢れていたと思います。
そして傷つき疲れ果てた人には、その優しさと癒やしが
より実感を持って、染み渡るのだと思います。
私もなんども、ばんばの言葉や、たかしくんの短歌に救われました。

未来もずっと舞いあがれ!舞ちゃん

半年、ありがとうございました!

牡蠣転生ナレの意味するもの

「牡蠣に、生まれ変わっております」

それは、あまりにも唐突なナレーションだった。

 

今回、牡蠣転生ナレーションの確認のために、朝ドラ「おかえりモネ」の第一回の録画を見直した。

ドラマ導入部、台風せまる亀島からスタート。荒ぶる海を乗り越える漁師シンジィの活躍とモネ出産というドラマチックなエピソードから始まり、そこから成長したモネにカメラは移動。爽やかな登米市の風景、森林組合やサヤカさんとの軽妙でユーモラスな会話など、緩急もあってなかなか面白い。
この時のモネの表情も、今と違い、豊かではつらつとしてて、とても可愛い。
なかなか期待できそうだぞ!とワクワクしなから視聴できる。
そこまで11分。

 

そこで、いきなり先の転生ナレがぶった切る。

そこまでの順調な流れを吹っ飛ばす、突飛な「生まれ変わり」ナレ。

 

どういう意図で入れられたものなのか?
ネットでもいろんな憶測を呼んだが、答えは出てこない。

 

(1)「復興」の暗喩
  東日本大震災では牡蠣の養殖産業も甚大な被害を受けた。
  種牡蠣も手に入らなくなり、存続すら危ぶまれたが
  各所からの協力を経て見事に復活を遂げた。
  おばあちゃんの牡蠣転生はそれを例えたものであろう。

(2)ファンタジー、童話系
(3)SF
(4)精神世界系
(5)単なるウケ狙い

 

この中で一番整合性が取れていて納得できる理由としては「復興の暗喩」だろう。1匹の牡蠣というよりは、牡蠣の概念そのものを指しているのだろう…

などなど、意見が揃ってきたが、その後、本編で転生ネタが触れられることは無くなった。

後日、朝イチのプレミアムトークに登場した竹下景子さんにも、視聴者からストレートに「何故、牡蠣に転生したのでしょうか?」と質問が飛んできたが、担当した彼女ですら「なんでしょうね?」と首をひねっていた。

 

以後、その設定はほとんど無視されて数ヶ月。

 

牡蠣は食べられた。
そして今度は…


切り取られて3年は経過して成長点も死滅しているであろう、間伐材から加工された「木の笛」から、豆苗のような芽が出て

 

「ウフフ 私 今度は
 カキから 葉っぱに生まれ変わったようです。」

 

…はあ?


そもそも「生まれ変わり」というナレーションの時点で、これを科学的に論じることの愚かさは重々に承知している。これはファンタジーであり、単なる物語なのだからいいじゃない、と割り切れたらいいのかもしれない。

 

またこれに関しても「いずれ森にこの苗を植生し、海と山との循環を暗喩するのだろう」という考察が、すでにネットでなされている。
まあ、そんなところだと思う。

 

ただ…

先のカキナレもそうなのだが
このドラマはそもそもファンタジー主体とした話なのだろうか。

 

例えば「ゲゲゲの女房」は史実をもとにしたドラマといえ、かなり幻想的なエピソードが取り入れられてた。それはモデルとなった水木しげる先生が、妖怪などはじめとした不思議世界に精通された方であり、物語の根源に「見えんけど、おる」という深いテーマが徹頭徹尾貫かれていたということも関係しているだろう。
初回から最後まで、幻想的なエピソードはしっかり取り入れられ、かつそれがストーリーにもうまく活かされていた。

 

翻って、おかえりモネ。

先にも言ったが、牡蠣転生のナレーションは、初回のみに入り、そこからその内容がナレーションで語られることは無かった。
いわば「出落ち」状態で、ずっと放置されていたのだ。

 

私個人の話になるが、私はそのネタをいつ使うのかという期待を込めて、感想用の故人タグとして「エターナル牡蠣」というタグを使ってたほどだった。
そのネタが入ることをずっと待っていた。
しかし、全く出てこないな…と思いかけた矢先、またまた唐突に「葉っぱに生まれ変わったようです」と出てきたのだ。

 

おかえりモネは気象予報士として活躍するヒロインを描くドラマである。気象予報士とは、科学的知見とデータを駆使して気象を予測するプロフェッショナルだ。
そして彼女を取り巻く男性たちは、どちらかというと非科学的なものに否定的。彩雲を見て幸運を予感できないかと言ったモネに対して、朝岡は真っ向から否定するほどだ。

菅波のやたら理屈っぽい台詞も、牡蠣棚に対する祖父や妹の取り組み方を見ても、パラリンピアンの鮫島チームとしての取り組み方を見ても、一貫して形而上学的な考えよりも、現実的で科学的な見地で組み立てられたストーリーである。

またモネはどちらかというと形而上学的な考えや精神論的な発想と親和性が高く、それをよく否定される立ち位置である。
大抵、現実離れしたモネを、理屈で武装したキャラクター(朝岡や菅波など男性中心)「上から」説教するエピソードが導入される。モネはそれをポカンと聞いて受け入れている、なんとも鼻白む展開が目立っていた。

 

ずっとそんな「科学優位」スタイルで進行していた物語。
そこに、初回の牡蠣ナレと同じく、唐突に「ファンタジー」なエピソードが挿入された。今までの展開とは遊離し、かなり違和感のある、非科学的な話である。
笛の奥に何らかの種子が入って芽吹いたのではという話もあるが、だとしたらあっという間に枯渇してしまうだろう。しかし、恐らくそうはなるまい。

 

何故、ここに来てこの唐突なファンタジーエピソードを復活させたのか。

ここからは私の単なる邪推だが、このドラマが放送されてから話題になったエピソードを組み入れることで、衆目を浴びたいという制作側の意図があるのではと思っている。

牡蠣転生ナレについてはネットで何度も取り上げられ、私以外にも話題になりタグ名になったり、ネタとして取り上げられたり、イラストにもなったりと、一種の盛り上がりがあった。特殊な検索をすれば数値的にも出てくるだろう。

また、登米編のラストで、ヒバの大木を切り倒したあとに、根本に「ひこばえ」が芽生え、それを見て涙したサヤカの演技も好評だったと思う。

 

それらを組み合わせて、満を持して「牡蠣ナレ再び」と二匹目のドジョウを狙ったのが今回の「葉っぱ転生」なのではないだろうか。

 

しかし、ここまで現実的と形而上学的なものをうまくミックスさせたストーリーならともかく、後者を散々否定しておきながら、今となって非科学的なエピソードを入れても、視聴者としてはどうそれを受け取ったらいいのか、面食らう人も多いのではないだろうか。

 

https://twitter.com/asadora_nhk/status/1428568733199515651
Twitterの公式アカウントは「お父さんからもらった笛から、小さな芽が…!」とつぶやき、「#カキから葉っぱに生まれ変わり」とタグをつける。それに楽しそうなコメントや引用リツイートもついている。


もはや、そういう感覚じゃないと楽しめないドラマ。
もちろん人の楽しみ方はそれぞれである。
その方が楽しく視聴できるであろう。


ただ、私個人はどうしても違和感が払拭できなかった。今後もこういう一貫性のないふざけた展開をするのだろうという失望しかなかった。


結局難しいことを、制作側にもとめても無理なのだと。
牡蠣ナレ自体も単なる「ウケ狙い」だったのだと。

 

誠実さも一貫性もかけらのない人たちの作ったものを、真面目に取り合う必要性を感じない。

 

どうしてこうなったのだろうか。


特にここ数年、東京制作の朝ドラに関しては、場当たり的で一貫性のない、誠実さがない作劇が多いように感じていた。

だが今回は「透明のゆりかご」のキャストやスタッフが起用されたと大いに期待していた。だからこそ、その失望の度合いも半端ではない。

 

朝ドラは歴史ある立派な枠のはずなのに、まるで素人が寄り集まって捏ねくり回したような作品しか作れない、そんな現場になってしまったのだろうか。

 

今回の転生ネタはともかくとして、特におかえりモネで問題と感じたのは「医療考証の軽視」と、「被災地への高みの見物姿勢」。これらは明らかに制作側の姿勢に問題があると言い切ってもいいと思う。

 

いつになったら、改善されるのだろうか。


はやく、公共放送としての矜持を、朝ドラ東京制作陣に取り戻していただきたい。

例の「感想文」を逆に考察してみた

※注意※

このポストは例の感想文をうっかり読んでしまった人向けに書いた駄文でございます。
もしそちらをまだ読んでない方は、無理に読む必要はありません。
というか読まないほうが良いです(きっぱり)

「おちょやん」の総評については、
こちらの記事のほうが何万倍もオススメします。是非ご覧ください。

 

『おちょやん』が伝えた“今ある人生”の尊さ ブレることなく貫かれた“普通”の理念
https://realsound.jp/movie/2021/05/post-761454.html
https://twitter.com/giraffine_gogo/status/1394416301242605570
ライター・佐野華英さん

他の記事も素晴らしいので是非ご一読を!
https://realsound.jp/?s=%E3%81%8A%E3%81%A1%E3%82%87%E3%82%84%E3%82%93%E3%80%80%E4%BD%90%E9%87%8E%E8%8F%AF%E8%8B%B1


『おちょやん』が描いたすべての人を肯定する優しさ
何度も噛み締めたい千代の言葉
ライター・池沢奈々見さん
https://realsound.jp/movie/2021/05/post-762893.html

 

(以下 本文)

 

私が先日ツイートした件について

 さらに、こちらで深堀りしていこうと思う。

 

最初に言っておきたい。

 

私は例の「感想文」、文章そのものや記事全体の構成を「ダメ」と言っているのではない。さすが大御所、手慣れた感はある。
ただし。他の記事もそうなのだが、根本的にご本人の主観と客観が分離出来ていないことが深刻なエラーとなっている。
結局は主観に基づく単なる感想文なのに、「自分が正義」状態になっていて、読者にとってそれが鼻につく、非常に不愉快な記事になっている。

 

何故、記事タイトルに中途半端が入っているのか。
そして何故、春子が「看護師になりたい。いや、なります。」と最後に言い切ったことを「頭で考えたもの」と言ったのか。

 

他の記事も合わせて読んでいると、矢部万紀子氏(以下、彼女)の好みは
「男性をも打ち据えるような激烈な女性像」ではないかと思う。


そして名女優・浪花千栄子
現代とは比較にならないほど女性が生きづらかった、大正から昭和初期の日本社会で、舞台にラジオに映画にと大活躍していた女性だった。
いっけん物腰柔らかく、しかし決して折れない竹のような生き方。
情に厚く、恩義には最大に報いる一方で、怨恨も決して忘れない。
一度恨んだ存在は、たとえ前夫でも生涯許さない。
まさにその苛烈な生き方こそ、彼女の理想像にピッタリ合致するのだろう。

 

以下は私の推察だが、
そんな彼女にとって「おちょやん」とは、浪花千栄子をモデルとしてエピソードを7割ほど使い、あとは朝ドラ基準に合わせて無難にまとめているドラマ。
それが中途半端だ、と感じたのではないだろうか。

 

彼女が期待する、苛烈な浪花千栄子はおちょやんには出てこなかった。
逆境にも負けず強く逞しく生きる千代も、自分ではなく周囲をもり立てる優しいお母ちゃんであり、それが主体性を失っているように見えたのだろう。
彼女が求める主人公像とは、自ら輝き周囲を引っ張るような真昼の太陽であり、千代のような満月はお呼びではなかった。

 

彼女にとって、自分が求めるもの、自分自身とも乖離した主人公に感情移入出来なかった結果、どうしても浅く、外側から眺めるようにしか視聴出来なかった。だから細かい心理描写やエピソードも空々しく見え、最後の春子の台詞すら唐突に思えたのではないだろうか。
その春子の台詞はドラマ構成や流れとしては理解していたので「頭でっかち」に感じたのであろう。


しかし実は頭でっかちなのは彼女自身というのは、実に皮肉なことではある。

 

おちょやんの主人公・竹井千代は、たしかに浪花千栄子をモデルとしているが、浪花千栄子ではない。今までの朝ドラと同じく、モデルがいてもフィクションなのである。

 

それが中途半端になっていて、主人公の性格付けが失敗していれば、批判もまた仕方ない。だが、そうではない。おちょやんで描かれた竹井千代は首尾一貫して竹井千代であった。

 

満月のように輝き、周りを明るく照らして元気にしたいと願うひとりの女性が、見事に立ち上るストーリー構成であり、演出であり、演者たちであった。

 

半年の長丁場で15分ごとに切るという、難しく特殊なフォーマットでありがら、数々の劇中劇や多くの要素を盛り込みながら飽きさせることもなく、丁寧なのにテンポある笑いあり涙ありのストーリー、毎回「ヒキ」も強く「次はどうなる!?」と思わせる構成、見事な伏線回収。朝ドラ屈指の名作だった。

 

何よりも制作側が、このおちょやんで何を表現したかったか、である。
「雨が降って地固まるや」「今ある人生、それがすべてですなあ」「人生はほんまにしんどぉて、おもろいなぁ」「明日もきっと、晴れやな」…などなど。


脚本家の八津弘幸先生はじめ制作に携わった皆さんは直接おっしゃらないが、根底には、新型コロナウイルス禍(とそれに関連する試練)で疲弊する視聴者を元気づけたい…それがあったのではないだろうか。


そのためには浪花千栄子ではなく、竹井千代である必要があった。
竹井千代でなければ、ならなかった。

 

彼女もおそらくそれは理解しているのに、それに乗れない。
なぜなら、自分好みのエゴの強い主人公ではないから。
それが悔しくてあの文章になったのではないだろうか、とこちらは邪推している。


個人的にお気の毒に思うのは、一般人なら「これは私好みの朝ドラじゃない」と判断すれば、適当に見るか、または視聴をやめてしてしまえばいいのだが、朝ドラ記事で続けてコラム(という感想文)を掲載し、仕事としている立場ならそうはいかない。

好みでなくても見続け、文章をまとめなくてはならない。


客観的に分析・整理していける人ならともかく、今までも「自分で感じたこと」を正義としてバッサバッサ斬っていくスタイルなので、今回も同じように自分が感じたままに書いたのだろう。


「中途半端だわ!描くならもっと浪花千栄子を深堀りして頂戴!台詞も腑に落ちてこないのよ!」

 

結局彼女は「浪花千栄子の朝ドラ」を見たかった、という一言につきるだろう。

 

あくまでも自分が感じたことである、というエクスキューズのもとに、浪花千栄子の魅力を上げ、その上でおちょやんにもそれを期待したけれども違った…的な切り口であれば、もう少し印象は変わったのではないかと思う。


が、それは彼女の「作風」ではないだろう。
そういう性格のものだと割り切って読むなら、観察対象としてはアリかもしれない。

 

ただ、論というにはあまりに主義・主観に偏り過ぎていて、参考にならない。


それは、彼女の名前が出る度に何度も言い続けるだろうな、と思う。

 

私が「なつぞら」にハマれない理由

なつぞら

残り一ヶ月を切りましたね。
毎日ながら見のあと念の為録画でも見直してますが、ため息しか出てきません。

 

あくまでも私の推論ですが、あのドラマの何が問題かというと、その世界観を完全肯定し、心酔した人じゃないと楽しめない、そんな作りになっているのでは?ってことなんですよ。

都合セリフやナレでチラッと出た言葉だけで納得し、
作り手が「一方的に見せたい絵面」に心から感嘆の声をあげなくてはならない。

矛盾や考証無視がどんなに多くても無視して、きれいな音楽とビジョンに心酔しなくてはならない。

批判する存在は異端者だから完全否定。

 

そんな楽しみ方は…私には出来ません

 

だって、まるで宗教じみているんですもの。
信者は教祖のアラを探さない、心から敬わないとならない、否定してはだめ。
だからハマる人は狂信的になるし、ハマらないと心底不愉快になるのだと思う。
強制的に押し付けられるものが快適なわけがないからです。

 

もちろん疑問に思いつつフラットな気持ちで視聴しようと努める人もいるでしょう。

狂信的といっても幅はあると思います。

しかし演者などへの強い愛情で「余計なものは見ない、見えない」くらいのスタンスではないと、手放しで喜ぶのは難しい仕上がりになっていると思うんですよね。

 

まあ色んな人がいるので、一概には言えないのですが、やたらと攻撃的なの人が多いのも、この「宗教的ドラマ」の特徴ではありますね。

 

これが好きだ!という人も多いから、それは否定しない。
できませんが…

 

ただ、彼らが

「モデルとなった人の馬の絵が未完だったのに、全部かけて良かったね。モデルの画家さんの願いを叶えてあげたんですね」(^^

「やさしいドラマだなあ」


などと言っているのを見ると、正直ゾッとしてしまいます。
歌広場さんのコメントにも影響されているのでしょうけど…
歌広場さんはあくまでも演者さんが幸せ、と強調していますが)

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著名人レコメンドキャプチャ https://www2.nhk.or.jp/archives/comment/?v=m&ogdid=D0009051050_00000&ogvol=135

あくまでも善意から来ているのでしょうが…

ただ、
自分にとっての「良かれ」が、決して本人らのそれとは一致しない時もあるんですけど、そういう事については何も疑わないんだ…と怖くなりますね…
狂気じみた善意というか…

 

そういうところ、なんですよ…

 

まあ今日の馬の話については、演者さんへの狂信的な愛情があってこその反応なのかもしれませんけどね。彼が幸せなら、全部幸せと思ってらっしゃるんでしょうが…

ネットでの批判集中は「いじめ」になるのか?

某アルファさん、あまりに演者への愛が暴走しすぎて…
大変なことになってますね。

 最近本当に目に余るので、おもわず直接リプつけようかとも思ったのですが、言っても平行線だろうし諦めました。ええ、チキンです。申し訳ない。
建設的な展開になりそうにもありませんし…

 

さて、表題の件ですが…

 

いじめかぁ…。私もご多分にもれず壮絶ないじめを受けたくちです。
暗黒時代とも言える中学生の時、まだ「いじめ」という言葉は言われはじめたばかりだった。

今はあまりに広義かつ便利に使われすぎて、本来の意味からどんどんズレてないか…?、と思う時もある(汗)

ウィキだと

  • 文部科学省の定義では、児童の一定の人間関係のある人物から、精神的、物理的な攻撃を受けたことで苦痛を感じていること
  • 国際的には児童に限らず自尊心を損なわせ弱体化させることを目的とした、執念深い、冷酷な、あるいは悪意のある企てによる、長期に亘って繰り返される不快な行為

確かに国際的基準でいうと「特定の存在に対して長期的に繰り返す不快な行為」はすべていじめになる、ということになる。

 

しかし、となると、4万以上のフォロワーに藁人形を振りかざして見せ、
「あいつらいじめてるぞ!」と陰湿に何度も書き込みするのも「いじめ」に該当しないか…?と思ってしまうわけで。

作品への批判やツッコみを、個人的主観で「あいつらは演者への憎しみをつのらせているからだ!」と勝手にすり替え、「あんな酷いことを!」って大手アカウント同士でさらに拡大させるのは非常に悪質だし、言論の自由を否定し、自分の気に入らない言動を封じようとする、恐怖政治も真っ青な行為だと思う。

 

そもそも、特定のタグに意見が集中してるとはいえ、それは余計な摩擦を避けるためだけのものであり、そこに意見が集中するのは自然の発露。
閉じられた空間だということも思ってないし、煽動もしないし集団行動でもない。

むしろ主観により歪んだ見解を一気に垂れ流し印象操作をするほうが、よほど煽動行為ですよ。

少なくとも私は、作品への批判を述べているだけ。公共放送で長く愛され影響力の強いドラマ枠だからこそ、例え小さな声であっても、素直な感想を述べておくべきと考えるわけです。それをどう取捨選択するかは受け取り手の自由ですが、多彩な意見が飛び交うのが健全なあり方だと思います。そういう人は、なちゅぞらタグを使っている人の中にも、とても多いと思いますよ。

 

それと。これは強く言いたいけれど。
作品への批判を「演者への憎しみ」にすり替えるのは、間接的にその演者への毀損行為に相当すると思いませんか?
その理屈でいうと「この作品が批判される理由は演者にある」と言ってるようなものなんですから。

 

批判意見の中に個人攻撃がないとは言いませんが、それが批判の全てではありません。
森の小枝で森全部を断ずるような言動は、非常に愚かしいと言わざるを得ない。

 

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私個人は、いじめいじめと連呼したくないんですよ。


特に日本では学校でのいじめが深刻化しているのに、こんなところで言葉を弄することで、その意味合いが薄まったりぼけてしまっては意味がない。
自分にとって気に入らない、不快なものを、「あれはいじめだ!」とすり替え封じる戦法に、わざわざ同調することもないとも思うからです。

 

私も以前、まんぷくの時に批判的意見を読むのは辛かったし、好きなものを否定されると怒る気持ちはよくわかります。
でも「自分の嫌なもの」だからといって、その存在を消すことは出来ないし、出来たとしたらとても不健全なことだと思います。

だから当時の私は極力そういう意見は、ミュートかブロックでシャットアウトし、素直な感想を述べるようにしていました。
制作側はそれでは困りますが(幅広い意見を取り入れて今後に活かす必要があるからです)、一般的な視聴者としては、そのスタンスで十分だと思います。



自分がいやなものだからこそ、それに同意は出来ないものの、
その存在を認める「努力」が必要。

それこそが多様性の実現につながる…そう思いませんか?

 

「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」

 

難しいことですが、何度も言いたい言葉ですね。

タグ越境してまで主張なされたい全ての方々へ(朝ドラ版【改】)

タグ越境してまでご自分の意見を主張なされたい、
すべての人に捧げる長文でございます…
見るも見ないも自由ではございますが、ご傾聴いただけますと幸いです。

 

「私は、このドラマが大好きなのに!
 なぜ、この人たちは批判反論ツッコミばかりなの?!」

 

あなたは何を焦っているのでしょうか?
本タグで批判意見が多くなったからでしょうか。
それを派生タグ民のせいにするのでしょうか?
紳士的にタグ分けしてきた人たちに対していきなり罵倒ですか?

 

派生タグは自主的にタグ分けしていますが、
それは別に強制されたわけではありません。
公式アカウントが使うタグを便宜上「本タグ」と呼んでいますが、
本来そこで何を呟いても自由なのです。

 

表現の自由ってご存知ですか?
世に出た作品に対して、大好きだと表明することも自由。
そして批判や評価も自由です。
もちろん、それに反論する自由もあります。
しかし単なる罵倒は議論ではありません。

「罵倒をしないで」程度の要求ならわかりますが、
自分の要求を垂れ流して「わかれよ!」と言っても、
他人は聞いてはくれませんよ。

 

さて今回は朝ドラという特殊枠ということも考慮してほしいのです。
この枠は、例えば被災地の避難所でも流れる枠です。
それほど公共性が高く、老若男女の幅広い人達が
「時計代わりに」日常の中に組み込んで見る枠です。

 

人により、見たくなくても見てしまう、
チャンネルを変えたくても変えられない、という方も多いでしょう。
またそれだけ固定ファンがついていて、毎回楽しみにしていて、
かつ彼らは大変目が肥えている、という背景もあります。

 

ハッキリ言いますが、民放ドラマなら、
このドラマはここまで相手にされないでしょう。
終了すれば急に静かになるでしょうし、安心してください。

 

もう一度言います。

 

あなたがこのドラマのことを好き!楽しい!と思うことは自由です。
それを阻害することは誰にも出来ません。

しかし同時に、このドラマを批判する人の口を塞ぐことも、出来ない。

 

そういう割り切りが出来ないと、
これからの人生は辛くなると思いますので、
スルースキル(ミュートやブロックで見たくない意見は消す、など)
を付けられた方がいいと、
老婆心ながら申し上げます。

 

むしろ、どこが楽しくて面白いのか、
そういう愛情たっぷりの、楽しいツイートを
なさったほうが、余程効果的だと思います。

 

長文、失礼致しました。