八咫烏ジラフィーヌの記録帳

Twitterの記録・補足のための長文用ブログです

スカッとドラマに私が「はて?」と思う理由

かつて、「スカッとジャパン」という番組があった。
理不尽で酷い扱いで人々を虐げる「ヴィラン(悪役)」を、誰かがギャフンとやりこめて、視聴者がスカッとするという主旨の番組だ。
確かに見ていて、ヴィランの振る舞い、所業、許しがたく耐え難い人物造形で、彼らがやっつけられると溜飲を下げる思い。

これはかつての時代劇の流れを汲んだバラエティ番組だと思う。
水戸黄門大岡越前必殺シリーズなど、出てくる「悪役」は、いかにもという風体で、弱き人々を蹂躙し、踏みにじり、命さえ奪う時もある。40分程度で話をまとめなくてはならないので、視聴者が混乱しないように人物造形されている。彼らの背景などは省かれ、大抵は私利私欲のためという単純な動機がついている。わかりやすい。

さらにスカッとジャパンは、せいぜい10分くらいで話をまとめなくてはならないので、ヴィランはグロテスクに悪い面を強調させた「記号」でしかない。
我が家の老母や姉は大好きで、必ず視聴していたが、私は嫌いだった。
何故なら、どうしても制作側の
「さあここで怒って!酷いやつでしょう。こいつをぶん殴ったらスカッとするでしょう?」
という意図のほうが鼻についてしまうからだ。

 

いわゆるモンスターと呼ばれる人格を持つ人間は、それこそリアルではあまたに存在していて、一過性ならともかく、嫌でも長期的に関係性が持続するというケースもざらにある。その鬱憤を、こう言う番組で疑似体験させ、叩きのめすことで、視聴者は一時的にもスッキリする。そういう作用はあるだろう。

だが私は、それでなくてもリアルで色々とあるのに、わざわざ嫌な疑似体験をしてまで人を叩きのめすことを快く思えない。何より、怒りを誘導操作されることが気持ち悪い。
だが先程の時代劇のように、一定層に需要があるのは理解しているし、その存在じたいは否定しない。

 

さてヴィランたちだが、彼らをスカッと殴りつけるためには、殴るほうにも、それ相応の「大義名分」が必要になる。理由もなく暴力やそれに近い行為でやり込めることは「正義」側としてはありえない。だからこそ、先程の「悪行」が、わかりやすい記号として描写されることになる。

例えば法律を学び、弱く虐げられた人々を救うために立ち上がった女子学徒たちが、一歩間違えたら命すら奪いかねない「男性の急所を激しく蹴り上げるという暴力行為」を、公的な場所で行うということは、それ相応の理由が必要になる。

長々と書いてきたが、私が今期の朝ドラに強く疑義を抱く理由は、このあたりにある。すなわち、相応の理由を視聴者に納得してもらうため、ヴィランの悪行を強調し、本来なら学校行事の進行を守る立場の大学側が妨害行為を制止しないという描写は、視聴者に「怒り」を誘導させるための「記号」なのではないか?と。

 

今期朝ドラは徹底して当時の社会構造の不備を描写している。昭和初期の法律における女性の扱いは酷いもので、令和の我々からすれば耐え難いものがある。そのまま描写するだけで怒りが湧き上がるのは当然だが、うまくバランスを取りながら制作していると思う。朝ドラという媒体を知り尽くし、ネットでの反応すらも組み込んでいて、技巧的にも優れたドラマだ。だが、どうしても制作側の「角度」として、怒りを特定の方向に誘導していないか?と、私は思わざるを得ない。

私が一番疑義を抱くのは、主人公の寅子と学友らで行われた法廷劇において、妨害行為を行った同大学生の男子複数人が、彼女らの劇をヤジで妨害した件にある。その時、学友の一人である山田よねが、ヤジをした男子学徒に対して詰め寄り、妨害学徒は彼女を突き飛ばした。その反撃として、先程の「男性の急所である股間を蹴り上げる」という暴力行為に及んだ。

だがこれは、同じ法律を学ぶ山田として適切な行為とは思えない。先のエピソードで「先に手出しさせればいいのに」という台詞があったことも加えて考えると、ここは男子学徒が「先に手を出した」という事実を逆手に取り、自らは暴力を振るうこと無く「これは傷害罪だ!警察に訴えるぞ」と喝破するほうが良かったのではないか?その際に大学側も騒ぎを制止するため先に動いていれば、それを盾にして言うこともできたのに、そうしなかった。何故か。

「女性が男性の股間を蹴り上げる」という行為を、視聴者がスカッとさせるための便利なシーンとして使いたかったからではないのか?

ちなみに、考証されている明治大学法学部の村上一博教授の記事を読んだが、今回のくだりは一部よりお叱りも受けているそうだ。以下引用します

法廷劇そのものは、男子学生たちによる妨害によって中止になってしまいましたが(校友の方から、明治大学のイメージが悪くなるとお叱りを受けましたが、もうすぐ岩田剛典さんが登場して一挙にイメージアップしますので・・・お許し願います)

虎に翼 第3週「女は三界に家なし?」を振り返って
https://meijinow.jp/article/toratubasa/95634

 

前述の通り、男性の急所を蹴り上げるという暴力行為は、一歩間違えれば命すら奪いかねない。
劇を妨害され、罵倒され侮辱され、突き飛ばされたのだから、そういう行為に及んでも構わない?だがそれは、法律を学ぶものとしては、あまりにお粗末な判断と言わざるを得ない。
これは過剰防衛である。
しかし何故その行為を選んだのか。

まとめではカットされなかった。
すなわち、制作側としては「絶対に外せない」と選んだシーンだと言える。

その上、華族の涼子にこう言わせている。

「私 法廷劇の時 ほれぼれしましたの。
 私は動けなかった。
 理不尽なことが起きているのに
 周りの目が気になって
 集まった記者が怖くて
 殿方に立ち向かうのが怖くて。

 そんな中 あなたは怒りを飲み込まず
 まっすぐに 真っ先に殿方の…。
  股間を蹴り上げた。

 私も あなたのように 周りを気にせず
 声を上げられるようになりたい。
 ちゅうちょなく股間を蹴り上げられる女性になりたい」

 

わざわざここで強調していること、好意的なエピソードとして取り上げていることからしても、話の上では、この行為は「肯定されている」とみなしていいだろう。

男性にとっての急所は、文字通り「男性のシンボル」といえる。
それを蹴り上げることで溜飲を下げてほしい、そういう意図があったのだろう。
男性、ひいては男性優位の社会構造そのものを蹴り上げろと。

だが、私はどうしても納得できない。
この怒りのフックは、ここまで意図的に恣意的に、強調されなくてはならないものだったのか?
声を上げられない女性たちに、怒れ、声を上げろ。股間を蹴り上げろ、男性を潰せと誘導する意図すら感じられる。
これはラディカル・フェミニズム思想に近い。

この法廷劇の皮肉なことは、本来、女医である犯人を女給に変えて、大学側が女性への偏見をもとに絶対弱者に捻じ曲げたことに主人公や友人たちが憤慨するという流れが、そのままこの作劇自体はどうなのか?というブーメランが発生していることである。

女性についての生理現象を、男性にも理解してほしいと願うのなら、センシティブな男性の股間周りについても、軽んじること無く扱ってほしかった。
女性以上に、実は軽視されているのは、男性性といえるのだ。

 

私が「怒りを誘導されること」に警戒感を抱くには理由がある。
フランス革命など、民衆を煽り立てて暴動を起こさせる背景には、こういう意図的な誘導で、デマや誇張を使って民衆の怒りを増幅させてきた扇動者が必ず存在する。

フランス革命においては、マリー・アントワネットの醜聞を女性たちに撒き散らし、彼女たちを怒りによって突き動かしてきたという事実もある。

デマやフェイクは、作るのは簡単だが、それを否定し説明することは難しい。
膨大な情報があふれる現代においては、その危険性は過去の比ではない。

今回、明らかに政治的な運動に誘導している存在もいて、私は強い危機感を抱いていた。
問題意識を持つこと、疑問を持つことは素晴らしい。
しかし、どうか、どうか慎重になっていただきたい。
ネット情報は必ず疑い、別角度からの検証が必須であることを、忘れてはならないと思う。

 


主役の寅子を演じる伊藤沙莉さんは、岡田惠和さんのラジオ番組でこう述べている。

(岡田)吉田さんの描いている脚本の世界が、すごくニュートラルでイーブンで、変な話、男の人でもすごく見やすい。

(伊藤)そうなんですよ、そこは脚本を見てホッとしたし、キャスト同士とか監督とかとも話しているのが、最近特に多いじゃないですか、女性の背中を押した作品が増えて、そういうものを描くと、どうしても女性に寄りがちというか、女性だけが苦しい思いをしたとか。もちろん昔の法律からして、すごく虐げてきたものだから、そこはちゃんと描こうと思いつつ、男尊女卑の逆になりたくないよね?というのを、すごく思ってて、そこはとっても大切にしたいって。ひとつひとつの言葉もそうだし、ニュアンスで、どこかこう、男の人が「悪」みたいには絶対にしたくない、というのを、皆で確認をとって、皆そういう意識だったから、すごく安心しました。

 

彼女の言葉は、視聴者としては福音である。
まだドラマとしては始まったばかり。
その誠実で真摯な姿勢を信じて、今後も視聴を続けようと思っている。