「牡蠣に、生まれ変わっております」
それは、あまりにも唐突なナレーションだった。
今回、牡蠣転生ナレーションの確認のために、朝ドラ「おかえりモネ」の第一回の録画を見直した。
ドラマ導入部、台風せまる亀島からスタート。荒ぶる海を乗り越える漁師シンジィの活躍とモネ出産というドラマチックなエピソードから始まり、そこから成長したモネにカメラは移動。爽やかな登米市の風景、森林組合やサヤカさんとの軽妙でユーモラスな会話など、緩急もあってなかなか面白い。
この時のモネの表情も、今と違い、豊かではつらつとしてて、とても可愛い。
なかなか期待できそうだぞ!とワクワクしなから視聴できる。
そこまで11分。
そこで、いきなり先の転生ナレがぶった切る。
そこまでの順調な流れを吹っ飛ばす、突飛な「生まれ変わり」ナレ。
どういう意図で入れられたものなのか?
ネットでもいろんな憶測を呼んだが、答えは出てこない。
(1)「復興」の暗喩
東日本大震災では牡蠣の養殖産業も甚大な被害を受けた。
種牡蠣も手に入らなくなり、存続すら危ぶまれたが
各所からの協力を経て見事に復活を遂げた。
おばあちゃんの牡蠣転生はそれを例えたものであろう。
(2)ファンタジー、童話系
(3)SF
(4)精神世界系
(5)単なるウケ狙い
この中で一番整合性が取れていて納得できる理由としては「復興の暗喩」だろう。1匹の牡蠣というよりは、牡蠣の概念そのものを指しているのだろう…
などなど、意見が揃ってきたが、その後、本編で転生ネタが触れられることは無くなった。
後日、朝イチのプレミアムトークに登場した竹下景子さんにも、視聴者からストレートに「何故、牡蠣に転生したのでしょうか?」と質問が飛んできたが、担当した彼女ですら「なんでしょうね?」と首をひねっていた。
以後、その設定はほとんど無視されて数ヶ月。
牡蠣は食べられた。
そして今度は…
切り取られて3年は経過して成長点も死滅しているであろう、間伐材から加工された「木の笛」から、豆苗のような芽が出て
「ウフフ 私 今度は
カキから 葉っぱに生まれ変わったようです。」
…はあ?
そもそも「生まれ変わり」というナレーションの時点で、これを科学的に論じることの愚かさは重々に承知している。これはファンタジーであり、単なる物語なのだからいいじゃない、と割り切れたらいいのかもしれない。
またこれに関しても「いずれ森にこの苗を植生し、海と山との循環を暗喩するのだろう」という考察が、すでにネットでなされている。
まあ、そんなところだと思う。
ただ…
先のカキナレもそうなのだが
このドラマはそもそもファンタジー主体とした話なのだろうか。
例えば「ゲゲゲの女房」は史実をもとにしたドラマといえ、かなり幻想的なエピソードが取り入れられてた。それはモデルとなった水木しげる先生が、妖怪などはじめとした不思議世界に精通された方であり、物語の根源に「見えんけど、おる」という深いテーマが徹頭徹尾貫かれていたということも関係しているだろう。
初回から最後まで、幻想的なエピソードはしっかり取り入れられ、かつそれがストーリーにもうまく活かされていた。
翻って、おかえりモネ。
先にも言ったが、牡蠣転生のナレーションは、初回のみに入り、そこからその内容がナレーションで語られることは無かった。
いわば「出落ち」状態で、ずっと放置されていたのだ。
私個人の話になるが、私はそのネタをいつ使うのかという期待を込めて、感想用の故人タグとして「エターナル牡蠣」というタグを使ってたほどだった。
そのネタが入ることをずっと待っていた。
しかし、全く出てこないな…と思いかけた矢先、またまた唐突に「葉っぱに生まれ変わったようです」と出てきたのだ。
おかえりモネは気象予報士として活躍するヒロインを描くドラマである。気象予報士とは、科学的知見とデータを駆使して気象を予測するプロフェッショナルだ。
そして彼女を取り巻く男性たちは、どちらかというと非科学的なものに否定的。彩雲を見て幸運を予感できないかと言ったモネに対して、朝岡は真っ向から否定するほどだ。
菅波のやたら理屈っぽい台詞も、牡蠣棚に対する祖父や妹の取り組み方を見ても、パラリンピアンの鮫島チームとしての取り組み方を見ても、一貫して形而上学的な考えよりも、現実的で科学的な見地で組み立てられたストーリーである。
またモネはどちらかというと形而上学的な考えや精神論的な発想と親和性が高く、それをよく否定される立ち位置である。
大抵、現実離れしたモネを、理屈で武装したキャラクター(朝岡や菅波など男性中心)「上から」説教するエピソードが導入される。モネはそれをポカンと聞いて受け入れている、なんとも鼻白む展開が目立っていた。
ずっとそんな「科学優位」スタイルで進行していた物語。
そこに、初回の牡蠣ナレと同じく、唐突に「ファンタジー」なエピソードが挿入された。今までの展開とは遊離し、かなり違和感のある、非科学的な話である。
笛の奥に何らかの種子が入って芽吹いたのではという話もあるが、だとしたらあっという間に枯渇してしまうだろう。しかし、恐らくそうはなるまい。
何故、ここに来てこの唐突なファンタジーエピソードを復活させたのか。
ここからは私の単なる邪推だが、このドラマが放送されてから話題になったエピソードを組み入れることで、衆目を浴びたいという制作側の意図があるのではと思っている。
牡蠣転生ナレについてはネットで何度も取り上げられ、私以外にも話題になりタグ名になったり、ネタとして取り上げられたり、イラストにもなったりと、一種の盛り上がりがあった。特殊な検索をすれば数値的にも出てくるだろう。
また、登米編のラストで、ヒバの大木を切り倒したあとに、根本に「ひこばえ」が芽生え、それを見て涙したサヤカの演技も好評だったと思う。
それらを組み合わせて、満を持して「牡蠣ナレ再び」と二匹目のドジョウを狙ったのが今回の「葉っぱ転生」なのではないだろうか。
しかし、ここまで現実的と形而上学的なものをうまくミックスさせたストーリーならともかく、後者を散々否定しておきながら、今となって非科学的なエピソードを入れても、視聴者としてはどうそれを受け取ったらいいのか、面食らう人も多いのではないだろうか。
https://twitter.com/asadora_nhk/status/1428568733199515651
Twitterの公式アカウントは「お父さんからもらった笛から、小さな芽が…!」とつぶやき、「#カキから葉っぱに生まれ変わり」とタグをつける。それに楽しそうなコメントや引用リツイートもついている。
もはや、そういう感覚じゃないと楽しめないドラマ。
もちろん人の楽しみ方はそれぞれである。
その方が楽しく視聴できるであろう。
ただ、私個人はどうしても違和感が払拭できなかった。今後もこういう一貫性のないふざけた展開をするのだろうという失望しかなかった。
結局難しいことを、制作側にもとめても無理なのだと。
牡蠣ナレ自体も単なる「ウケ狙い」だったのだと。
誠実さも一貫性もかけらのない人たちの作ったものを、真面目に取り合う必要性を感じない。
どうしてこうなったのだろうか。
特にここ数年、東京制作の朝ドラに関しては、場当たり的で一貫性のない、誠実さがない作劇が多いように感じていた。
だが今回は「透明のゆりかご」のキャストやスタッフが起用されたと大いに期待していた。だからこそ、その失望の度合いも半端ではない。
朝ドラは歴史ある立派な枠のはずなのに、まるで素人が寄り集まって捏ねくり回したような作品しか作れない、そんな現場になってしまったのだろうか。
今回の転生ネタはともかくとして、特におかえりモネで問題と感じたのは「医療考証の軽視」と、「被災地への高みの見物姿勢」。これらは明らかに制作側の姿勢に問題があると言い切ってもいいと思う。
いつになったら、改善されるのだろうか。
はやく、公共放送としての矜持を、朝ドラ東京制作陣に取り戻していただきたい。