八咫烏ジラフィーヌの記録帳

Twitterの記録・補足のための長文用ブログです

例の「感想文」を逆に考察してみた

※注意※

このポストは例の感想文をうっかり読んでしまった人向けに書いた駄文でございます。
もしそちらをまだ読んでない方は、無理に読む必要はありません。
というか読まないほうが良いです(きっぱり)

「おちょやん」の総評については、
こちらの記事のほうが何万倍もオススメします。是非ご覧ください。

 

『おちょやん』が伝えた“今ある人生”の尊さ ブレることなく貫かれた“普通”の理念
https://realsound.jp/movie/2021/05/post-761454.html
https://twitter.com/giraffine_gogo/status/1394416301242605570
ライター・佐野華英さん

他の記事も素晴らしいので是非ご一読を!
https://realsound.jp/?s=%E3%81%8A%E3%81%A1%E3%82%87%E3%82%84%E3%82%93%E3%80%80%E4%BD%90%E9%87%8E%E8%8F%AF%E8%8B%B1


『おちょやん』が描いたすべての人を肯定する優しさ
何度も噛み締めたい千代の言葉
ライター・池沢奈々見さん
https://realsound.jp/movie/2021/05/post-762893.html

 

(以下 本文)

 

私が先日ツイートした件について

 さらに、こちらで深堀りしていこうと思う。

 

最初に言っておきたい。

 

私は例の「感想文」、文章そのものや記事全体の構成を「ダメ」と言っているのではない。さすが大御所、手慣れた感はある。
ただし。他の記事もそうなのだが、根本的にご本人の主観と客観が分離出来ていないことが深刻なエラーとなっている。
結局は主観に基づく単なる感想文なのに、「自分が正義」状態になっていて、読者にとってそれが鼻につく、非常に不愉快な記事になっている。

 

何故、記事タイトルに中途半端が入っているのか。
そして何故、春子が「看護師になりたい。いや、なります。」と最後に言い切ったことを「頭で考えたもの」と言ったのか。

 

他の記事も合わせて読んでいると、矢部万紀子氏(以下、彼女)の好みは
「男性をも打ち据えるような激烈な女性像」ではないかと思う。


そして名女優・浪花千栄子
現代とは比較にならないほど女性が生きづらかった、大正から昭和初期の日本社会で、舞台にラジオに映画にと大活躍していた女性だった。
いっけん物腰柔らかく、しかし決して折れない竹のような生き方。
情に厚く、恩義には最大に報いる一方で、怨恨も決して忘れない。
一度恨んだ存在は、たとえ前夫でも生涯許さない。
まさにその苛烈な生き方こそ、彼女の理想像にピッタリ合致するのだろう。

 

以下は私の推察だが、
そんな彼女にとって「おちょやん」とは、浪花千栄子をモデルとしてエピソードを7割ほど使い、あとは朝ドラ基準に合わせて無難にまとめているドラマ。
それが中途半端だ、と感じたのではないだろうか。

 

彼女が期待する、苛烈な浪花千栄子はおちょやんには出てこなかった。
逆境にも負けず強く逞しく生きる千代も、自分ではなく周囲をもり立てる優しいお母ちゃんであり、それが主体性を失っているように見えたのだろう。
彼女が求める主人公像とは、自ら輝き周囲を引っ張るような真昼の太陽であり、千代のような満月はお呼びではなかった。

 

彼女にとって、自分が求めるもの、自分自身とも乖離した主人公に感情移入出来なかった結果、どうしても浅く、外側から眺めるようにしか視聴出来なかった。だから細かい心理描写やエピソードも空々しく見え、最後の春子の台詞すら唐突に思えたのではないだろうか。
その春子の台詞はドラマ構成や流れとしては理解していたので「頭でっかち」に感じたのであろう。


しかし実は頭でっかちなのは彼女自身というのは、実に皮肉なことではある。

 

おちょやんの主人公・竹井千代は、たしかに浪花千栄子をモデルとしているが、浪花千栄子ではない。今までの朝ドラと同じく、モデルがいてもフィクションなのである。

 

それが中途半端になっていて、主人公の性格付けが失敗していれば、批判もまた仕方ない。だが、そうではない。おちょやんで描かれた竹井千代は首尾一貫して竹井千代であった。

 

満月のように輝き、周りを明るく照らして元気にしたいと願うひとりの女性が、見事に立ち上るストーリー構成であり、演出であり、演者たちであった。

 

半年の長丁場で15分ごとに切るという、難しく特殊なフォーマットでありがら、数々の劇中劇や多くの要素を盛り込みながら飽きさせることもなく、丁寧なのにテンポある笑いあり涙ありのストーリー、毎回「ヒキ」も強く「次はどうなる!?」と思わせる構成、見事な伏線回収。朝ドラ屈指の名作だった。

 

何よりも制作側が、このおちょやんで何を表現したかったか、である。
「雨が降って地固まるや」「今ある人生、それがすべてですなあ」「人生はほんまにしんどぉて、おもろいなぁ」「明日もきっと、晴れやな」…などなど。


脚本家の八津弘幸先生はじめ制作に携わった皆さんは直接おっしゃらないが、根底には、新型コロナウイルス禍(とそれに関連する試練)で疲弊する視聴者を元気づけたい…それがあったのではないだろうか。


そのためには浪花千栄子ではなく、竹井千代である必要があった。
竹井千代でなければ、ならなかった。

 

彼女もおそらくそれは理解しているのに、それに乗れない。
なぜなら、自分好みのエゴの強い主人公ではないから。
それが悔しくてあの文章になったのではないだろうか、とこちらは邪推している。


個人的にお気の毒に思うのは、一般人なら「これは私好みの朝ドラじゃない」と判断すれば、適当に見るか、または視聴をやめてしてしまえばいいのだが、朝ドラ記事で続けてコラム(という感想文)を掲載し、仕事としている立場ならそうはいかない。

好みでなくても見続け、文章をまとめなくてはならない。


客観的に分析・整理していける人ならともかく、今までも「自分で感じたこと」を正義としてバッサバッサ斬っていくスタイルなので、今回も同じように自分が感じたままに書いたのだろう。


「中途半端だわ!描くならもっと浪花千栄子を深堀りして頂戴!台詞も腑に落ちてこないのよ!」

 

結局彼女は「浪花千栄子の朝ドラ」を見たかった、という一言につきるだろう。

 

あくまでも自分が感じたことである、というエクスキューズのもとに、浪花千栄子の魅力を上げ、その上でおちょやんにもそれを期待したけれども違った…的な切り口であれば、もう少し印象は変わったのではないかと思う。


が、それは彼女の「作風」ではないだろう。
そういう性格のものだと割り切って読むなら、観察対象としてはアリかもしれない。

 

ただ、論というにはあまりに主義・主観に偏り過ぎていて、参考にならない。


それは、彼女の名前が出る度に何度も言い続けるだろうな、と思う。