八咫烏ジラフィーヌの記録帳

Twitterの記録・補足のための長文用ブログです

ネットでの批判集中は「いじめ」になるのか?

某アルファさん、あまりに演者への愛が暴走しすぎて…
大変なことになってますね。

 最近本当に目に余るので、おもわず直接リプつけようかとも思ったのですが、言っても平行線だろうし諦めました。ええ、チキンです。申し訳ない。
建設的な展開になりそうにもありませんし…

 

さて、表題の件ですが…

 

いじめかぁ…。私もご多分にもれず壮絶ないじめを受けたくちです。
暗黒時代とも言える中学生の時、まだ「いじめ」という言葉は言われはじめたばかりだった。

今はあまりに広義かつ便利に使われすぎて、本来の意味からどんどんズレてないか…?、と思う時もある(汗)

ウィキだと

  • 文部科学省の定義では、児童の一定の人間関係のある人物から、精神的、物理的な攻撃を受けたことで苦痛を感じていること
  • 国際的には児童に限らず自尊心を損なわせ弱体化させることを目的とした、執念深い、冷酷な、あるいは悪意のある企てによる、長期に亘って繰り返される不快な行為

確かに国際的基準でいうと「特定の存在に対して長期的に繰り返す不快な行為」はすべていじめになる、ということになる。

 

しかし、となると、4万以上のフォロワーに藁人形を振りかざして見せ、
「あいつらいじめてるぞ!」と陰湿に何度も書き込みするのも「いじめ」に該当しないか…?と思ってしまうわけで。

作品への批判やツッコみを、個人的主観で「あいつらは演者への憎しみをつのらせているからだ!」と勝手にすり替え、「あんな酷いことを!」って大手アカウント同士でさらに拡大させるのは非常に悪質だし、言論の自由を否定し、自分の気に入らない言動を封じようとする、恐怖政治も真っ青な行為だと思う。

 

そもそも、特定のタグに意見が集中してるとはいえ、それは余計な摩擦を避けるためだけのものであり、そこに意見が集中するのは自然の発露。
閉じられた空間だということも思ってないし、煽動もしないし集団行動でもない。

むしろ主観により歪んだ見解を一気に垂れ流し印象操作をするほうが、よほど煽動行為ですよ。

少なくとも私は、作品への批判を述べているだけ。公共放送で長く愛され影響力の強いドラマ枠だからこそ、例え小さな声であっても、素直な感想を述べておくべきと考えるわけです。それをどう取捨選択するかは受け取り手の自由ですが、多彩な意見が飛び交うのが健全なあり方だと思います。そういう人は、なちゅぞらタグを使っている人の中にも、とても多いと思いますよ。

 

それと。これは強く言いたいけれど。
作品への批判を「演者への憎しみ」にすり替えるのは、間接的にその演者への毀損行為に相当すると思いませんか?
その理屈でいうと「この作品が批判される理由は演者にある」と言ってるようなものなんですから。

 

批判意見の中に個人攻撃がないとは言いませんが、それが批判の全てではありません。
森の小枝で森全部を断ずるような言動は、非常に愚かしいと言わざるを得ない。

 

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私個人は、いじめいじめと連呼したくないんですよ。


特に日本では学校でのいじめが深刻化しているのに、こんなところで言葉を弄することで、その意味合いが薄まったりぼけてしまっては意味がない。
自分にとって気に入らない、不快なものを、「あれはいじめだ!」とすり替え封じる戦法に、わざわざ同調することもないとも思うからです。

 

私も以前、まんぷくの時に批判的意見を読むのは辛かったし、好きなものを否定されると怒る気持ちはよくわかります。
でも「自分の嫌なもの」だからといって、その存在を消すことは出来ないし、出来たとしたらとても不健全なことだと思います。

だから当時の私は極力そういう意見は、ミュートかブロックでシャットアウトし、素直な感想を述べるようにしていました。
制作側はそれでは困りますが(幅広い意見を取り入れて今後に活かす必要があるからです)、一般的な視聴者としては、そのスタンスで十分だと思います。



自分がいやなものだからこそ、それに同意は出来ないものの、
その存在を認める「努力」が必要。

それこそが多様性の実現につながる…そう思いませんか?

 

「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」

 

難しいことですが、何度も言いたい言葉ですね。